I.HIV感染症診療の手引き(平成6年12月)

1.HIV感染症 

(1)

概念

 HIV(Human Immunodeficiency Virus、ヒト免疫不全ウイルス)を病原体とする感染の全経過をまとめてHIV感染症という。その症状は、感染後まもなく一部の患者にみる急性期症状から、急性期症状の有無にかかわらず、これに続く無症状感染、さらに病期が進行して細胞性免疫能の低下をきたし、特異な日和見感染症を発症したり、二次性悪性腫瘍の発生あるいは神経障害を発現するなど多彩な様相を呈する。本症の本質はHIVがCD4陽性細胞(主としてリンパ球)に感染し、免疫担当細胞の機能障害や破壊をきたす結果、免疫不全に陥ることにある。
 AIDS(Acquired Immunodeficiency Syndrome)は病原体発見以前に定義された疾患概念であるが、現在ではHIV感染症の経過のうち、日和見感染症や二次悪性腫瘍あるいは神経障害を伴う病態に相当する。
 本症は1981年アメリカで発見され、その病原ウイルスは1983年初めて分離されたが、WHOを中心とする世界的制圧の努力にもかかわらず急速に全世界に拡大流行しつつある。

(2)疫学

  1. 世界の状況
     WHOは世界各国からの報告に基づき、各国の患者報告数を発表するとともに、HIV感染の流行状況の分析結果や、将来予測に関する情報の提供を行っている。
     1994年6月末現在、世界保健機関(WHO)に190カ国から約98万5千人のAIDS患者が報告されている。米国が最も多く42%を占め、これを含めたアメリカが53.5%、次いでアフリカ33.5%、ヨーロッパ11.5%などの順である。
     しかし、実際には世界のAIDS患者発生数累計は約400万人以上と推計されており、アフリカの占める割合がもっとも大きく67%以上、米国10%、米国を除くアメリカ12%、ヨーロッパ4%、アジア6%、その他1%以内であると推定されている。また、成人のHIV感染者の地域別累積数は、サハラ以南アフリカが最も多く1,000万人以上、北アメリカ100万人以上、ラテンアメリカ・カリブ海地域200万人、南及び東南アジア200〜300万人、西ヨーロッパ50万人以上、北アフリカ・中東10万人、東ヨーロッパ・中央アジア5万人以上、東アジア・大平洋地域5万人、オーストラリア・ニュージーランド2万5千人以上、総計1,600万人以上と推計されている。
     世界のAIDS流行の疫学的状況は地域により著しく異なっており、WHO資科によれば、地域別の現状は次のとおりである。
    北アメリカ、西ヨーロッパ、オーストラリア:
     これらの地域ではHIV感染は1970年代末期から1980年代初期にかけて著しく拡大した。
     感染者の多くは男性同性愛者(両性愛者を合む)、静注薬物濫用者(IDU:injecting drug users)及びその性パートナーである。血液製剤は現在では安全とみなされる。各国とも近年異性間感染が次第に増加する傾向がみられる。男:女比は約10:1で、母子感染は比較的少ない。1993年末までのHIV感染者は全世界の約1/10、約160万、その2/3を米国が占めると推計される。
    ラテンアメリカ、カリブ海地域:
     この地域では1970年代末期から1980年代初期にかけてHIV感染の拡大が始まった。当初は男性同性愛者又は両性愛者が中心であったが、1980年代中頃から異性間性的接触によ る感染が増加してきた。カリブ海諸国では既に異性間感染が主体となっている。
    サハラ以南アフリカ:
     この地域もまた、1970年代中期から末期にかけて流行が拡大した。HIV感染の大部分が異性間性的接触によるもので、その1/2〜2/3は東及び中央アフリカ地城で発生している。男:女比ほぼ1:1、出産年齢女性の感染者数は400万人といわれ、母子感染による小児の感染が比較的多い。献血HIV検査体制の不備な多くの地域では、輸血による感染がまだ起きている。IDUの感染は極めて少ないが、不潔な注射針や皮膚刺通器具などによる感染もみられる。なお、西アフリカ地域にはHIV-2の流行が認められる。
    南及び東南アジア:
     HIV感染は遅れて始まり、1980年代中期から後期にかけて拡大し、患者報告はまだ極めて少ないが、流行は急速に進んでいる。最近、特にタイ、インド、ミャンマー、中国雲南省などでは、異性間性的接触及び静注薬物濫用によるHIV感染者の増加が著しい。タイでは1987〜88年にIDUの間で爆発的なHIV感染が起こり、続いて売春婦の間に急速に拡大し、最近では一般家庭妊婦の感染率の上昇も見られている。
    東アジア、太平洋地域:
     この地域でもHIV感染は1980年代初期に遅れて始まり、まだ流行の初期段階と考えられる国々が多い。当初は、欧米、アフリカなど流行地域の感染者との性的接触あるいは輸入血液凝固因子製剤による感染であった。国により主要なリスク要因は著しく異なる。総体的に流行の進展は遅いが、太平洋諸島地域では人口当たりの感染率の高い国もみられる。
    その他の地域:
     東ヨーロッパは従来HIV感染の報告は極めて少なかったが、自由化に伴い、最近、次第に報告が増加している。ルーマニアにおいては輸血による乳幼児のHIV感染集団発生が報告された。中央アジア・北アフリカ、中東地域においてはHIV感染は概して少ないが、一部の国においては売春婦に高いHIV感染率が報告されている。
     今後の動向は世界の地域により著しく異なると思われるが、異性間件的接触による感染が最も主要な感染様式になると考えられる。このような状況で推移すると、2000年には、全世界の子供を含めた全HIV感染者の累計は3,000万〜4,000万人に達すると予測される。また、2000年には、全世界で成人AIDS患者の年間発生数は約100万人、このうち1/2はアフリカで、1/3はアジアで、1/10はラテンアメリカで発生し、その累計は1,000万人に達すると予測されている。
  2. わが国の状況
     わが国では1985年に初めてAIDS患者が確認されて以来、サーベイランス委員会によって患者のみならず感染者の発生状況が把握されている。1989年2月17日に「後天性免疫不全症候群の予防に関する法律」が施行され、医師の届け出が義務付けられたが、凝固因子製剤による感染者や患者は届け出対象から除外されている(資料参照)。わが国の流行の現時点(1994年)での特徴としては、(1)患者・感染者は1991年以降急増傾向にあること、(2)患者・感染者の大半が、凝固因子製剤による感染症例であること(注:厚生省研究班の報告に基づく)、(3)同性間性的接触(男性同性愛)にかわり、異性間性的接触が性行為による感染の主流となりつつあること、(4)外国人特に女性の感染者の割合が増大していること、(5)日本人では、男性女性ともに国内で感染する事例が増加し、大半を占めていること、(6)日本人男性は20〜40歳代に感染者が多く、女性は20歳代に集中していること、(7)1990年に入ってから、母子感染事例及び静注薬物濫用事例の報告が現れたこと、などが挙げられ、わが国のHIV感染流行は新たな局面を迎えつつある。
(3) 感染経路

 HIVは患者及び感染者の血液、精液、膣分泌液、唾液、母乳、尿、涙などの体液のほか、組織や臓器にも含まれているが、感染源として重要なものは血液、精液、膣分泌液である。従ってHIVは主として性行為及び血液媒介によって感染し、母乳感染も知られる。しかし、唾液感染や昆虫媒介感染はない。 

1) 性行為感染:HIVの主要感染経路であり、アメリカ、ヨーロッパではAIDS患者の70〜80%が同性愛ないし異性愛の男性であり、アフリカではAIDS患者の約80%は異性間性的接触によるとされる。男性同性間の性的接触による高い感染率は肛門性交によるところが大きい。
2) 血液媒介感染:HIV感染者の血液を非感染者に輸血することによってHIV感染が起きるし、HIV感染者の血液から作られた血液製剤である凝固因子製剤の輸注によっても感染した。わが国では、献血血液のHIV抗体検査(1986年11月以降)と凝固因子製剤の加熱処理(1985年7月以降)が行われるようになって以来、血液媒介による新しい感染者は出 ていない。その他汚染された臓器の移植、注射の回し打ち、不潔な入れ墨、まれには医療事故などが感染の原因となりうる。
3) 母子感染:その多くは経胎盤または産道感染であるが、時には母乳感染もある。感染率は一般的には約30%といわれている。アメリカの調査では、小児のHIV感染の感染要因のうち、約80%は両親のうち少なくとも1人以上がAIDS患者かHIV感染者であり、さらに、その80%は母親がHIV感染者であったとされる。

(4)

潜伏期・発病率

 HIV感染後AIDS発病までの潜伏期については2〜3年で約10%、5〜6年で約30%、8〜10年で約50%がAIDSを発症し、20年以内に感染者の9割が発病するという推定もある。またHIV感染後のAIDS発病率は年平均5〜7%とする報告もある。なお、最近はHIVに感染しながら長期間AIDSを発症しない長期未発症例の存在が注目されている。

(5)

臨床像と経過の概要

 HIV感染が成立すると、平均6〜8週後に患者の血液中にHIV抗体が検出される。その時期に先立って急性症状を呈するものが少数に認められるが、大多数の感染者は無症状または特に気づく症状のないまま経過する。一部の感染者にみられる急性症状は感染後2〜8週経ってから出現するが、一過性の伝染性単核球症様症状あるいは流感様症状で、2〜3週間続いて自然に消退し無症状期(AC:asymptomatic carrier、無症候キャリア)に入る。その後種々の期間の潜伏期を経て、持続性全身性リンパ節腫脹(persistent generalized lymphadeno−pathy、PGL)を呈するものがあり、さらに1カ月以上持続する発熱、持続する下痢、10%以上の体重減少、倦怠感、盗汗などの非特異的症状が現れるが、この持続状態がAIDS関連症候群(ARC:AIDS related complex)である。ARCには軽度の症状発現からAIDSに近い病態までが含まれている。さらに進行してCD4陽性リンパ球が減少し、細胞性免疫能が高度に障害されると、抵抗力が低下して各種日和見感染症、悪性リンパ腫、カポジ(kaposi)肉腫、神経障害などを発症してくる。この時期がAIDSと呼ばれる病態であり、複数の日和見感染症を併発していることが多く、症状は多彩かつ重篤である。

(6) 病型分類と病期の概要

 本症発見当時からの分類で、現在でも便宜的に用いられている無症候性キャリア(AC)、AIDS関連症候群(ARC)及びAIDSとする分類ではHIV感染症の的確な表現や実態の把握が困難になったので、米国CDCは疫学調査のための分類として、CDC病型分類(表IV-l、128頁)を発表した。その他、病状、ウイルス検出、免疫状態を考慮したWalter Reedのステージ分類(表IV-2、128頁)、WHOステージ分類(表IV-3、129頁)がある。CDCは1993年にCD4陽性Tリンパ球数を考慮に入れた新たな分類を発表した(表IV-4、130頁)。

(7)

予後

 HIVに対する特効的薬剤のない現在、AIDS患者の予後は全く不良である。発症した日和見感染症の治療が進められ、一時的に好転しても再発を繰り返しやすく、あるいは他の日和見感染症を合併して、次第に増悪していく。1986年のアメリカの調査では、AIDS発症後約80%が2年以内に、大部分の患者は3年以内に死亡しているが、最近では患者の3分の1が2年以上生存しているとの報告もある。HIV感染者のAIDS発症阻止を目的として、感染者に対する日常生活の指導や発症防止ないし遅延の目的で各種の投薬が試みられているが、アジドチミジン(AZT)、ジダノシン(ddI)の使用により、明らかな遅延効果が認められ、現在治療薬として承認されている。

(8)

予防

 AIDSの治療やワクチンの見通しが立っていない現在は予防が重要である。AIDS予防は、すなわちHIV感染予防であり、その中心はAIDSに関する知識の徹底した普及と危険行動の変容である。個人的予防は感染経路の遮断であり、社会的には患者や感染者に対する理解であり、医療的には事故防止である。
 主要な感染経路のうち血液媒介感染については、献血時血液のHIV抗体検査の徹底と凝固因子製剤の厳重な管理によって感染経路が遮断され、その後の新しい感染者の発生はみられない。静注薬物濫用による感染は、欧米では麻薬常習者の注射器共用による感染であり、約20%を占める。わが国では薬物(主に覚醒剤)の静注濫用による感染はまだ極めて少ないが、今後増加する可能性もありうるので、監視を要する。
 性行為感染は全世界で7割〜8割を占める。男女とも不特定多数の相手との性交渉は危険であるが、特に肛門性交などのように出血を伴いやすい性行為の場合には感染率が高い。いずれの場合にも正しいコンドームの使用は予防に有効である。
 母子感染は将来増加が予想され、その予防は重要である。HIV感染妊婦の出産における帝王切開は小児の感染のリスクを低減させる。また、母乳哺育は避けることが望ましい。
 医療機関では、感染防止の手引きを日常診療に活用して事故発生防止に努めるとともに事故を想定してあらかじめ対応を定めておく必要がある。
 社会的対応として患者や感染者に対する広い理解とプライバシーの保護に配慮する。