HIVの病原性決定因子に関する研究

京都大学遺伝子実験施設 田代 啓 



1. 当該研究の目的
 主任研究者・田代と分担研究者・本庶らが1993年に単離、解析、命名、発表したケモカインファミリーのサイトカインであるSDF-1(Stromal cell-derived factor-1;ストロマ細胞由来因子-1)は、T細胞指向性HIV-1ウィルス感染補助受容体(別名:CXCR4、フューシン)の生理学的リガンドである(図1)。1996年、欧米の2グループが、SDF-1タンパク質を培養液中に加えることにより、T細胞親和性HIV-1のT細胞への試験管内での感染が阻止されたと報告した。この報告は、SDF-1がHIV-1ウイルス感染者(キャリア)体内でのT細胞への再感染を阻止し、エイズ発症を阻止または遅延できる可能性があることを具体的実験データーで示した注目すべきものであった。
 このように試験管内でその可能性が示された、SDF-1を用いての、HIV-1ウイルス感染補助受容体(CXCR4)を標的とする対エイズ治療と診断を確立するためのステップとして、SDF-1がヒト集団で実際に抗エイズ的に効いていることを示すことは、たいへん重要な課題である。そこで、最も多数の臨床データをもつ米国のグループの遺伝疫学的研究に共同研究として参加することでこの目的の実現を図る。それにより得られた遺伝子多型が日本人集団に存在するかどうかを調べて、この成果自体が日本人患者、キャリアを直接益するかどうかを調べる。さらに遺伝子多型による遅延のメカニズムを解明することでエイズの発症機構解明を目指す。



図1

2. 重点課題
(1)で示した目的実現のため、次の2点を重点課題とした。
1. SDF-1遺伝子座の多型によってエイズ発症が遅延するかどうかの米国の大規模なデータの遺伝疫学的検討に協力することと、その多型が日本人集団に存在するかどうかの検討。これは、エイズ発症を制御するヒトの遺伝子は何か?という問いに対する答えの一つとなる。
2. SDF-1遺伝子座の多型によってエイズ発症が遅延するメカニズムの解明。特に、そのために不可欠なSDF-1タンパク濃度測定。

3. 研究の成果
1.SDF-1遺伝子座の遺伝子多型探索
 SDF-1遺伝子にエイズ発症時期を制御する遺伝子多型があるかどうかの検討は、米国国立ガン研究所(NCI)のOユBrien博士を中心とする、我々も含むチームでなされ、以下に示すような極めて重要な成果を挙げた。
 我々が明らかにしたヒトSDF-1遺伝子の塩基配列に基づき、OユBrien博士らは、一本鎖コンフォメーション多型解析(SSCP)法を用いて、SDF-1のタンパク質翻訳開始のメチオニンをコードするATGから数えて801番目の塩基に遺伝子多型が存在することを発見し、Aの型を3ユA、Gの型を3ユ+と名付けた(図2)。彼らは約2800例の米国のHIV-1感染者のサンプルを用いて、各症例のSDF-1遺伝子型(3ユ+型または3ユA型)と感染からエイズ発症までの期間との相関、及び、感染からエイズによる死亡までの期間との相関を、統計的手法を用いて検討した。その結果、両対立遺伝子(父由来母由来の両方の遺伝子)とも3ユA型である場合(3ユAのホモ接合型;3ユA/3ユAと表記)にエイズ発症遅延効果があるという結果を得、既知のCCR5遺伝子やCCR2遺伝子のHIV-1感染耐性型遺伝子多型に比べて3倍にも及ぶ遅延効果であることが、集団の比較により示された。エイズによる死亡率の推移を示すカプランマイヤー曲線で 3ユ+/3ユ+や3ユ+/3ユAの遺伝子型を持つ場合の50%死亡が7〜8年であるのに対し、3ユA/3ユA型の集団では、大規模なHIV-1感染者のフォローを始めて以来20年になるが、まだ50%死亡に至っていない。
 また日本人については、京都大学で健常人ボランテイアを調べたところ、SDF-1遺伝子のエイズ発症遅延型ホモ接合型がみいだされ、日本人にとって現実のエイズ制御遺伝子であることが示された。一方、一時期、あたかもノアの箱船に乗った家系のようにその遺伝子多型を持つ家系がHIV-1感染しないと話題になったCCR5遺伝子delta32型は、いわゆるヨーロッパ人集団のみに見出されている。我々の調査においても今のところ日本人集団では見つかっていない。

2.SDF-1遺伝子座の多型によってエイズ発症が遅延するメカニズムの解明
 図2に示す仮説、すなわちSDF-1タンパク濃度の差によってエイズ発症遅延がおこっている可能性が高いため、各遺伝子型をもつ個体の血中SDF-1タンパク濃度を測定する作業を実行中である。まずSDF-1を認識する抗体の作製とそれを用いるサンドイッチELISA法の発展型・高感度イムノアッセイ法によるSDF-1タンパク定量方法を樹立した。次にそれを用いての米国NCIのOユBrien博士らとの共同研究は、米国のHIV感染者血液サンプル中のSDF-1タンパク質濃度を我々が測定するという段階に順調に進展している。


図2

4. 今後の展望
 これまでの我々の研究成果により、SDF-1遺伝子が、CCR5遺伝子、CCR2遺伝子、MHC遺伝子と並んで、ヒトのエイズ発症制御遺伝子であることと、これらのなかで最強の発症遅延効果を発揮することが示された。また、SDF-1遺伝子の遺伝子診断(3ユA型または3ユ+型)によるHIV-1ウイルス感染者のエイズ発症時期のおおまかな予測の可能性が示唆された。また、SDF-1遺伝子型や血中SDF-1濃度を指標にして、よりきめ細かな治療法選択とエイズ随伴症候群出現の予測の可能性が期待される。一方、今後の研究進展により、SDF-1遺伝子型やSDF-1濃度がHIV感染症の予後を決定づけることが確定した場合、そのことにより、新たな差別が生じないようにデータ管理と倫理的配慮が必要となる。
 このたびの研究で、SDF-1(3ユA/3ユA)型遺伝子多型のエイズ発症遅延効果が統計的手法によって示されたが、統計に付き物である不確実性による誤判断の可能性を完全には排除できない。進行中の生化学的、分子生物学的メカニズムの解明が重要である。エイズ発症遅延型SDF-1遺伝子は、3ユ非翻訳領域の塩基の置換であるため、SDF-1タンパク質そのものは正常であると考えられる。そこでSDF-1遺伝子多型によるエイズ発症遅延のメカニズムについて以下の2つの可能性が考えられる。1. SDF-1はHIV-1ウイルス感染補助受容体の生理的リガンドであるので、SDF-1タンパク質の量の差による競合阻害や感染補助受容体のダウンモジュレーションの程度の差であろうと予想できる(図2)。エイズ発症遅延がSDF-1タンパク質の量の差によるとすれば、HIV-1感染者に対してSDF-1タンパク質及びその類縁体を投与することによりエイズ発症遅延をもたらすことが期待できる。2. エイズ発症の制御は、SDF-1 3ユAそのものではなく、染色体上の3ユAの近傍にあり、遺伝的に密に連関する別の遺伝子多型によるという可能性がある。
 第1の可能性を検討するため、高感度イムノアッセイ法によるSDF-1タンパク定量方法を樹立した。OユBrien博士らは、一時期血中SDF-1タンパク質濃度を測定できると自称する米国内のグループとの共同研究を地理的利便性のために検討していたが、信頼できる検量線と測定実績を有するのが我々のグループのみであることに気付き、我々と共同研究を続行している。このことは、我々のSDF-1測定系が現時点で最良であることを裏付けている。共同研究を発展させ、SDF-1遺伝子型やAIDS病態と血中SDF-1タンパク質濃度の関係を解明していきたい。なお、我々は第2の可能性の検討も進めている。
 また、本研究で樹立した血中SDF-1タンパク質測定系に類する系が他には現存せず、ヒト血中SDF-1タンパク質濃度の測定を希望する米国やフランス等諸外国の研究チームから共同研究を要請されて実行中であることから、本研究は日本の科学研究が世界に貢献している実例の一つであると考えられる。

5. 研究者構成
主任研究者 田代 啓 京都大学遺伝子実験施設
共同研究者 池川雅哉 京都大学医学研究科 分子生物学
矢部大介  京都大学医学研究科 分子生物学
金澤伸雄 京都大学医学研究科 分子生物学
三國貴康 京都大学医学研究科 分子生物学
Jingli Yuan 早稲田大学理工学部・CREST
松本和子 早稲田大学理工学部・CREST
Stephan OユBrien 米国国立ガン研究所(NCI)
Cheryl Winkle
William Modi他