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第6回アジア・太平洋地域国際エイズ会議報告書

群馬大学医学部 医学基礎講座 (医哲学・倫理学専攻)  服部 健司


 メルボルンの天候は一日のうちで大きく変わる。晴れていたかと思っ ているといつしか暗雲たれこめ、しとしと雨に降られる。春とはいえ日暮 れてからの冷え込みはきびしい。会議が終わる刻には市中の多くの店が 扉を閉ざし、ここがどんな街なのか、その空気をつかむことはとうとうで きなかった。けれどもホテルと会場との間をむすぶヤラ川沿いの公園風 の小道をたどり歩きながら、ほのかな潮風に会議の心地よい疲れを癒し、 そしてまた多くの様ざまな会議参加者たちのエイズ問題への真摯な熱 情がこの身にしみてゆくさまをはっきりと実感することはできた。

 今回の会議参加は、「妊婦検診におけるHIV抗体検査実施をめぐる倫理 問題」に関する口頭発表を行い、アジア太平洋地域の人々と意見交換を 行い、その成果を自身の今後の研究に盛り込むことが主要目的であっ た。アメリカの公衆衛生局から「ルーチン・カウンセリング&ボランタリー・ テスティング」という勧告が出されて久しいが、この国の医療現場では 無断検査や半強制的検査、しかも抗体陽性と分かると診療が拒否された り何の説明もなされないまま他の病院に転院させられるといった問題的 な事例が-医療全体のなかでごく少数の例外であってほしいが-報告 されつづけている。その一方で、自治体によっては公費負担による、妊婦 検診でのHIV抗体検査の全数検査化へむけてのルーチン化が推進されて いる(青森県では、母子感染成立機序が不明確であり、またACTG076プ ロトコールが確立されその効果が確認される以前の1993年から公費負担 検査が開始された)。その後の技術の進歩によって、AZT処方、予定帝王 切開そして母乳禁止によって母子垂直感染率は1%程度に抑えこめるこ とが判明した。母親の中長期的予後についてはまだ不明な点が残され ているが、さしあたり医学的な観点からみるかぎり母子感染防止の利益 と必要性については疑いようがない。さてしかし、果して倫理学的観点か らみたらどうなのか。また日本をひとたび離れてみたら、この問題はど のように扱われているのか。

 妊婦のHIV抗体陽性率は現時点で、たとえばカンボジアでは2.5%、ミャ ンマーで2.2%、タイ1.5%、マレーシア0.03%、と報告されている(WHO 2001)。日本では妊婦10万人あたり6.6人 (疫学研究班献血者・妊産婦グ ループ報告書1999) である。

 インドでは年間2,700万人が妊娠するが、もしそのうち0.4%(108,000 人)がHIV陽性で、医療介入をまったくせずに母子感染率が30%だと想定 すると、年間32,000人の新生児が感染を受けるだろうと計算される。そ こで、インドにおいて母子感染予防は急務である。Anne Vincent 氏の調 査によると、妊婦192,474人のうち、カウンセリングを受けた割合は89.1% で、抗体検査を受けたのは60.5%だった。その結果、1,724人の陽性が確 認され、42.1%(726人)がAZTの投与を受け、分娩後2ヶ月の時点での感 染率は10%であった。このうち3割がまったく母乳栄養によっており、多く が混合栄養だと報告された(ちなみに、タンザニアでは現在でも母乳栄 養が100%であり、反対にブラジル、ボツワナ、タイでは人工栄養の使用率 が高い。タイでは1年間、ボツワナやウガンダ、ルワンダでは半年間、人工 乳の無償配布がある。インドでは牛乳が用いられる率も高い。ただし、人 工栄養を使用すると、母子感染率は下がるが、反復性の下痢など別の感 染症への罹患率が上がる)。

 カンボジアでは母子感染予防対策として、抗体陽性妊婦にはAZT 200mgの一回単日投与、児にも6mg一回投与が行なわれているという。 Kruy L. Sim氏によると妊婦の受検率は82%で、18%が受検を拒否してい る。

 Mary Culnane氏によれば、タイでは1999年10月から1年間に128,870件 の分娩があり、その97%が妊婦検診を受けており、そのうちHIV抗体検査 を受検したのが88%、受検を拒否したのが12%だった。受検群での抗体 陽性率は1.4%だった。注目すべきはカウンセリングの実施率と実施形態 である。検査前および検査後カウンセリングはほぼ全数に行なわれ、個 別カウンセリングが約4割、グループカウンセリングが約1割、両者の併用 が約5割であった。この点、日本の産科の現状はいかがなものだろうか。 なお同氏の調査では89%で陽性告知は本人に対してのみ行なわれ、残 りは本人の同意なくパートナーに行なわれたものという。

 さて、これらの報告の中でも若干は触れられていたが、きっちりと明か していかなくてはならないものは、受検拒否の理由である。もちろんプ ライバシーに立ち入りすぎることは医療者といえども慎まなければなら ないが、もしその理由に医療体制上の(ないしはそれに対する心理的な) 問題があるとするならば、事態の改善につとめるべきだろうからである。

  ニュージーランドのKaren A.Heckert氏らの研究発表は、妊婦検診のあ り方を考える上で示唆に富むものだった。まずひとつのスタディでは、国 籍や人種の異なる49人の生殖可能年齢層の女性のHIV検査ルーチン化 への意識が調査された。エチオピア人、カンボジア人の8割は強制的検査 が望ましいと答え、これに対して、太平洋諸島出身者やマオリ族、ヨー ロッパ系住民の8割は非強制的で希望に応じて提供される検査が望まし いと答えた。さらにもうひとつのスタディでは、728人の家庭医、助産婦、 産科医のHIV抗体検査に対する意識調査が行なわれた。回答率は59%で あり、そのうち88%が抗体検査は児にとって有益であると強く確信する と答え、85%は妊娠前に検査を行なうことが女性にとって有益であると 答えた。にもかかわらず、検査のルーチン化がニュージーランドにおいて 採られるべき最も適切な対策だと答えたのは36%にすぎなかった。また 25%がリスク評価のルーチン化を支持した。この研究からは、インフォー ムド・コンセントの観念が浸透した社会とそうでない社会とでの人々の意 識のあいだに差があることを読むことができそうだ。

 それでは、ひるがえって、この日本での実態はどうだろうか。果して市 民は強制的ないしは半強制的に近い(断りにくい)検査を望んでいるのだ ろうか。それとも逆だろうか。そのいずれにしても、タイにおけるカウンセ リングの実施形態に多くを学ぶ必要はないのだろうか。