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第9回アジア太平洋地域国際エイズ会議参加報告書
 

心療内科長田クリニック(沖縄) 臨床心理士
與那嶺 敦

テーマ: 社会におけるディスカッションの役割――ICAAPに参加して

台北から南へさらに5時間飛んで、真夜中過ぎ。ようやくバリの空港に降り立った。スピーカーから流れる涼しげなガムランの響きに迎えられる。柱には、「違法薬物(ドラッグ)を持ち込んだら死刑!」との広告が電気で照らされている。タクシードライバーからは、日本語で親しげに話しかけられて、かえって警戒してしまいながらも、無事にホテルまでたどりついた。翌朝から3日間、「第9回アジア太平洋地域エイズ国際会議」の会場ホテルにタクシーで向かった。わらぶきのバンガローが建ち並んでいるというイメージとは違い、車窓からは赤瓦の屋根が目につく。ここから沖縄まで赤瓦の文化圏が続いているんだと思うと、親しみと同時に、文化の地理的な連続性にも興味を覚えた。会議では、大小の様々な集会が同時進行で開かれており、各国からの数千人の参加者が活発な議論を繰り広げていた。そこでは、HIVそのもののケアというよりも、HIVという服をまとって現れた社会問題が主な議題であった。特に私が関心をもったのは、日本ではあまり論じられていない次の3つの側面であり、社会におけるディスカッションの役割についても認識を新たにした体験であった。

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1. Harm reduction(害の軽減)
 日本でも、エイズ予防のために、コンドームを配布するということは盛んにおこなわれている。ただし、中・高校生に配ることについては、かえって性交渉をあおることになるのではないかという保守的な見方がある一方で、現実を見据えて予防を優先すべきではないかという革新的な見方もある。このように、対策にともなう「害」(性交渉の助長)を認めつつも、より大きな「害」(感染拡大)のほうを優先的に軽減するような対策をうつことを「ハーム・リダクション」と言う。

それが世界的には、コンドーム配布にとどまらず、現在では、ドラッグを打つための注射器配布のことを指すようになっているのである。というのも、感染経路として、ドラッグの回し打ちが見逃せないほど増加しているためである。例えばマレーシアでは、感染報告数の累計が8万5千ほどにのぼっているが、2008年の新規報告数3700弱のうち、約6割がドラッグの回し打ちによる感染だったとのことである。最近、首相も注射器配布に同意したという新聞記事も紹介された。

ドラッグの蔓延については、多くの国で、職や教育を得るよりもドラッグを得るほうが容易であるという事実が指摘された。パキスタンを例にとっても、HIVとドラッグ、貧困をそれぞれ頂点とする三角形モデルが形成されており、ドラッグや貧困へのはたらきかけがHIV対策に不可欠であることがよくわかった。

ドラッグや貧困の拡大は、日本の未来像であるかもしれない。最近、芸能人のドラッグ使用が話題となっているが、一般にも蔓延しつつあることを表わしているのではないだろうか。入手のしやすさという意味では、アルコールの問題と置き換えると理解しやすいように思う。貧困にしても、「ワーキングプア」の問題が取りざたされている。ある時点で“上りのエスカレーター”に乗れなかっただけで、そのまま格差が広がっていくのは、はたして平等と言えるのかという疑問が浮かぶ。インドネシアのあるスピーカーは、「リーダーが国民を信頼することにより、国民もリーダーを信頼することにつながる」と締めくくった。日本でも、リーダーが社会的マイノリティに手厚いケアを提供することにより、国民全体の安心とリーダーへの信頼につながるのではないだろうか。

さらに、ハーム・リダクションには、「対象をあるがままに見据える」という心理臨床との共通点もあり、個人的に合点のいく考え方である。クライエントとの相談活動においても、コンドーム使用を援助するとき、毎回とまでいかないまでもその機会を1回でも増やそうと取り組むであろうが、それがまさしくハーム・リダクションなのである。


2. 感染を広げた陽性者への刑罰化
現在の日本では考えにくいことであるが、世界的には、HIVを感染させた陽性者に対して刑罰を与える動きが広がっているという。インドからは、陽性であることをパートナーに伏せていた女性が、「さらし刑」としてインターネット上に顔写真が掲載された例が紹介された。マレーシアからは、イスラム教徒のカップルに婚前のHIV検査が義務化されたという報告があった。

刑罰化が最近急速に進んだ要因として、国連開発計画(UNDP)のオーストラリア人職員は、次のようなものをあげた。“予防疲れ”、何か手を打たねばという焦り”、“特効薬となるような対策への期待”、“断固たる手段を取りたい欲求”、“被害者を救済するという大義名分”、などである。しかしながら、刑罰を法制化した国で、感染数が減少したというエビデンスはないそうである。それどころか、かえって差別を助長したり、治療へのアクセスが悪くなったりしかねない。そもそも、刑事事件化するためには故意かどうかが重視されるが、それを立証するのは困難である。セックスワーカーにしても、客に故意に感染させれば、結果的にビジネスが成り立たなくなるのは誰の目にも明らかであり、故意に感染させることは考えにくい。

活動家たちのディスカッションが白熱していくのを目の当たりにしながら、私は日本の状況に思いを馳せていた。おそらく当面は、違法薬物の持ち込みに死刑が適用されることもないだろうし、HIVを感染させた陽性者が罰せられるとも考えにくい。それは、事を荒立てないようにするという日本文化の一側面の影響でもあろう。その反面、日本人にはディスカッションに対する“免疫”がなく、普段押さえ込んでいる攻撃的な感情が、最近の新型インフルエンザ騒動のような緊急事態の際に、一気にあふれだして極端な社会的反応を後押しするのではないかと考えた。普段からのオープンなディスカッションが、社会を少しずつ動かしていくと同時に、社会が極端にぶれることも予防しているとすれば、たとえネガティブな思考・感情であっても、表現する場を保証することが重要であろう。そういった意味では、心理臨床の場も、その役割を担っていると言える。


3. ジェンダー(性役割)の課題
ジェンダーというと、女性の地位向上といった側面でとらえられがちであるが、実はジェンダーを語るのに男性は欠かせないという。男性の場合、無職だったりストレスを抱えたりしているときに女性への暴力に向かうことが多い。また、女性のセクシュアリティを否定して従来の貞操を求めたり、パートナーシップを異性間に限ったりすることにより、男女間のひずみが生じているとの指摘であった。その一つがMSM1) の結婚である。中でもバングラディシュからは、文化的に、MSMの多くが結婚を余儀なくされているとの報告があった。結婚は宗教上の教えであると同時に、父親にならないと社会的に一人前としてみなされないうえに、老後の面倒をみてもらうためにも子どもを設けることが必要とされている。MSMが結婚するということは、伴侶となる女性のセクシュアリティについては顧みられないことを意味している。さらに陽性のMSMにとって、妻への感染告知は避けてとおれない課題となっており、この面でカウンセリングの重要性が強調された。

いわゆる性産業の状況についても、女性だけでなく男性のセックスワーカーの存在も会議の場できちんと取り上げられており、そのことは日本ではまだ目新しいために印象に残った。タイからの報告によると、男性のセックスワーカーには貧困層出身が多く、陽性者である場合、二重にスティグマ(社会的汚名)を着せられ、それだけで憎悪の対象となって犯罪被害を受けるケースもある。学校では、セックスワーカーに限らず、MSMを嫌悪する風土もあるという。

では、「ウイルスと闘うだけでなく、そこに潜む事柄と闘う(Dr. Michael Tan)」ために、どのような対策をとっていけばよいのか。その点については、単体で特効薬となる事業はないという。陽性者ケアに関しては、人権保護のための法的サポートとともに、大規模な、スティグマ軽減キャンペーン事業を展開することが勧告された。そこには、陽性者の収入機会を増やすような、職場への啓もうを含めた取り組みが含まれる。

予防に関しては、社会のマイノリティ(女性、MSM、セックスワーカー、貧困者、ドラッグ使用者、移民)に事業へ参画してもらうことにより、保護というよりも、自分を守れるようにマイノリティをエンパワメントすることが重要であるとのことであった。その点で、スティグマやジェンダーといったテーマは欠かせない。学校教育においては、性交渉を行動化する以前から、家族なども含めた幅広い枠組みにおいてHIV・STIをとりあげる必要がある。その際、人間のセクシュアリティの多様性を認めながら、MSMのセルフ・エスティーム(自尊心)の向上を図ることにより、彼らをセーフセックスのネットワークに導く、という道筋が示された。さらに検査相談においては、強制や恐怖感を与えない環境を実現するために、相談員に倫理観や守秘義務を周知することも話題にのぼった。

日本に目を移すと、MSMの結婚や男性セックスワーカーがどの程度存在するのかは不明ではあるが、それに付随する問題が潜在的にあることは十分考えられる。ジェンダーやスティグマの問題を考えることがHIVの予防ケアにもつながっていくという視点を新たにした。また、マイノリティをエンパワメントすることは、クライエントをエンパワメントするという点で心理臨床にも通じている。

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1) Men who have sex with menの略で、男性と性交渉をもつ男性のこと。当事者の性的指向については問わない。

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帰国して空港からタクシーに乗ったとき、運転手さんは私の住所までの行き方をご存知なく、「道を知らなくて、お酒に酔った方によく叱られるんですよ」と頭をかいておられた。そこから、飲酒について話題が広がった。その運転手さんには、普段はおとなしいが酒を飲むと攻撃的になる知人がいるそうである。日本人は、普段はものが言いにくい文化的環境におかれていて、飲酒が発散のための手段になりやすいのかなと思った。そこから、アルコール依存やうつ、自殺の問題にまで頭の中でつながっていった。旅の終わりに、バリ島での活発なディスカッションを思い浮かべつつ、日本でも「互いにものが言いやすい環境づくり」に貢献していくことを今後の活動指針としていこうという考えとともに、自宅にたどり着いた。