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第10回アジア太平洋地域エイズ国際会議参加報告書
 

名古屋市立大学
新ヶ江 章友

はじめに
2011年8月26日より30日まで、大韓民国・釜山において第10回アジア・太平洋地域エイズ国際会議が開催された。会場となったBEXCOは、釜山市中心部から少し離れた現代的な高層ビルが立ち並ぶリゾート地・海雲台(ヘウンデ)に位置する。本論ではとりわけ、今回の学会でしばしば言及されていた「シンデミック・アプローチ(syndemic approach)」に着目し、今後のHIV/AIDS研究におけるシンデミック・アプローチの重要性についてふれてみたい。

シンデミックとはなにか
私はとりわけMSM(Men who have Sex with Men、男性と性行為を行う男性)をめぐるHIV/AIDS研究とその対策に関心をもちながら今回の会議を拝聴した。そのような中、カンボジアをはじめとする東南アジア地域のMSMに対するHIV/AIDS対策に国際協力の視点から研究をなさっている岡島克樹氏(大阪大谷大学)より、近年の国際的な研究ではシンデミック・アプローチが注目を集めているというお話を伺った。エイズ国際会議では、その日の会議内容の方向性を示す「プレナリー・セッション」と呼ばれるものが午前と午後の最初に大会議場で開催される。会議4日目の朝に行われた「急速に変化するMSMコミュニティにおける予防」と題されたプレナリー・セッションでも、シンデミック・アプローチを用いた報告が疫学研究者のFrist van Griensven氏によって行われていた[1]

では、シンデミックとは何なのであろうか。シンデミック(syndemic)とは、エピデミック(epidemic)、エンデミック(endemic)、パンデミック(pandemic)と同様の語尾をもつが、相乗効果を意味するsynergyに由来する。米国CDCの定義によると、シンデミックとは「ある集団における疾病の負荷を相乗的に悪化させていく二つ以上の苦痛(afflictions)」と定義されている[2]。例えば、ニューヨーク市のスラム街に住むアフリカ系やカリブ系アメリカ人の間でHIV/AIDSが流行している背景を知るには、まず彼ら彼女らを取り巻く具体的な生のリアリティを、グローバリゼーションとの関係の中から広く理解する必要がある。このリアリティとは、貧困、非雇用、栄養失調、人種差別、ドラッグ使用、ジェンダーに基づく暴力、家庭崩壊などをめぐる具体的生の様相である。これらのリアリティは、グローバルな政治・経済における不平等や格差と密接に関連している。貧困による栄養失調が人々の免疫力を低下させ、違法なドラック使用を促進し、HIV感染の脆弱性を高める。シンデミックとは、これらの人間の苦痛が複合的に増幅されていくことをさす。

シンデミックの考え方として重要な点は、疾患の原因となる病原体が社会・文化的あるいは政治・経済的要因から独立しては移動しないということである。例えばHIVは、全人口に均等な広がりを見せるものではなく、特定集団内で広がりやすい。HIVという病原体は、権力関係の負荷のかかる人々をめざして移動していく。シンデミック・アプローチでは、病原体が移動していくその経路を、とりわけ政治・経済的権力関係から分析していこうとし、その権力関係はグローバルなものとして理解される。例えば、あるハイチの貧しい村に住むひとりのエイズ患者のローカルな経験は、グローバルな権力関係の中に位置付けられながら理解しなければならないのである[3]

シンデミックという概念は、1990年代のはじめに批判的医療人類学者のメリル・シンガー(Merrill Singer)によって提唱された[4]。批判的医療人類学(Critical Medical Anthropology)とは、人間の健康問題がグローバルな政治・経済といかに関連しているのかをマクロな視点から分析する。しかしHIV/AIDS研究におけるシンデミック・アプローチは、近年では医療人類学者のみならず、主に社会疫学研究者らによって注目されるようになってきている。日本でも川上憲人らによる『社会格差と健康』(東京大学出版会)が出版されたが、健康問題を政治・経済的権力関係の問題として分析する視点は、ここ数年の世相を反映したものであるといえるだろう。

シンデミックの定義からシンデミック・アプローチの方法論などについては2008年にCDCがホームページ上に紹介しており、この手法を用いた研究を行う研究者のネットワーク構築を行おうとしている[5]。HIV/AIDSをめぐるシンデミック・アプローチを用いた研究も、とりわけここ数年顕著に増加する傾向にある。MSMにおけるHIV/AIDSの流行に関しては、例えば移民と差別との関係から論じたものや[6]、パートナーからの暴力とメンタルヘルス、薬物使用との関係を論じたものなど[7]、様々である。いずれの問題もグローバルな政治・経済に基づく権力関係がHIV感染の脆弱性を生み出していると主張している点で共通しており、これらの調査は質的・量的調査法のいずれを用いても可能である。

行動変容から構造変容へ
では、近年のHIV/AIDS研究においてシンデミック・アプローチが注目されるようになってきている背景には、何があるのだろうか。

ここ数年のエイズ国際会議ではこれまでのHIV/AIDSの予防介入の限界が認識され始め、新たなアプローチが模索され始めている。「これまでのHIV/AIDSの予防介入」とは、主に個人の行動を変容させようとする介入プログラム全般を指す。これまでのHIV/AIDSの予防介入アプローチの一つのキーワードは「コミュニティ」であった。このコミュニティ・アプローチはとりわけ1990年の半ばより注目されるようになり、社会学者や文化人類学者によるコミュニティ・アプローチの理論化も行われてきた[8]。例えば、様々な社会・文化の中で不可視化されていたMSMをエンパワーメントさせ、「ゲイ・コミュニティ」を生成し、MSMのネットワークを利用しながら、コンドームの配布、HIV/AIDSに関する情報の流布、HIV抗体検査の促進を行う。コミュニティ・アプローチは、MSMの行動を短期的に変容させていくには効果的な側面がある。実際コミュニティ・アプローチは、個人の行動変容を促すという点において一定の成果を挙げてきたが、一方で新規HIV陽性者の増加は現在でも収まる気配を見せていない。また一旦コミュニティという概念に基づいて介入を行うと、コミュニティとの接触を躊躇するMSMへの介入が難しくなるという問題も生じる。

以上のような研究動向の中で近年注目されるようになってきているのが、スティグマへの介入やシンデミック・アプローチなどである。コミュニティ・アプローチによる短期的で即戦力をともなった予防介入は今後も必要である。しかし一方で、HIV/AIDSがある特定集団内で多く発生している原因を社会・文化的あるいは政治・経済的背景を分析することを通して明らかにしつつ、HIV/AIDSの流行を促す社会構造自体を長期的な視点から変容させていくことが必要だという認識に、近年大きくシフトしてきているものと考えられる。

今回の学会では、シンデミックという用語はあえて使用してはいないものの、社会構造とHIV感染リスクとの関係を意識した発表がいくつか行われていた。その代表的な発表を、MSMとHIV感染リスクとの関連からいくつか紹介したい。ベトナムのHoang Tu Anhは、家庭、学校、職場などでのMSMに対する暴力がHIV感染リスクを高めており、HIV予防介入施策においてはこれらの暴力の予防も同時に行われなければならないと指摘した[9]。この調査ではアクションリサーチの方法を用いながら17人のMSMにインタビューが行なわれており、暴力を受けた当事者が絵画療法を通して癒しやエンパワーメントの機会が得られたと紹介した。MSMに対する暴力は、そのほとんどが本来子供を守るべき親、教師、警察官などによって行われているため、このような暴力の存在は社会の中でほとんど認知されていない。この暴力は、例えば自分の子供が同性愛者だと親が知ることによって生じると指摘されていた。暴力を受けた子供たちはストレスや抑うつ状況によって家出、自殺企図、売春などを行うようになり、HIV感染リスクの高い性行為を行う状況に置かれるようになるという。つまりHIV感染予防対策としては、単にリスク行動をとる個人の心理や行動への介入のみならず、ホモフォビア(同性愛嫌悪)を生み出す社会構造への介入が必須となる。

またパキスタンのJan Willem De Lind Van Wijingaardenは、83人のMSMやトランスジェンダーに対するインタビュー調査の結果を報告した[10]。文化人類学者などによる報告では、MSMという用語がもつバイアスが常に指摘される[11]。例えばパキスタンにおいても、ゲイやトランスジェンダーという用語自体、現地ではほとんど使用されていないという。パキスタンのMSM、つまり男性と性行為を行う男性は、セックスワーカー、会社職員、トラックの運転手、船乗り、ストリート・チルドレン、ヒジュラなどのそれぞれのカテゴリーの中に包含されており、「ゲイ」と自認しているものの数はわずかであり、「ゲイ・コミュニティ」という凝集性も見られない。パキスタンにおける男性同性間の性的関係は、伝統的に存在する関係から近年登場してきた「ゲイ」というアイデンティティに基づいた関係まで様々である。男性同性間の性的関係が生じる背景としては、貧困、大家族、ドメスティック・バイオレンスなどによる家出にともなう売春、結婚するまで女性と性交渉ができないために男性同性間でセックスを行うという伝統的・宗教的慣習、女性っぽい男性に対する差別など、様々な要因が融合的に絡み合っている。そもそもこの地域では、親の息子に対する暴力が虐待として概念化すらされていないという。このような少年虐待やジェンダー規範など、西欧社会で認識されている概念枠組みがそのまま利用できないため、まずはこれらの暴力を社会が認知する必要があるのだという。この報告においても、HIV感染リスクが虐待、ジェンダー規範、子供の人権などの社会構造との関連から議論されているものの、そもそも私たちの暴力に対する概念枠組みとパキスタンのそれはずれているため、この点をどのように問題化しながら介入していくかが重要な鍵となってくると言う。

量から質か?
シンデミック・アプローチのひとつの特徴は、HIV感染リスク行動の高い個人へ直接介入するのではなく、そのようなリスク行動を間接的に促す社会構造へと介入することである。その介入対象は、子供に暴力をふるう親であったり、性差別を行う人々であったり、貧困層への社会保障政策を実施しない政府などである。これらの介入がHIV/AIDSの予防にとって重要であり、これらの対象にこそ介入しなければならないという指摘のされ方は、近年特に顕著であるといえるだろう。

シンデミック・アプローチは、フィールドワークや質的調査法を得意とする医療人類学者によって当初提唱されたものであったが、一方で疫学との親和性も高い。なぜなら、HIV/AIDSが流行している背景をミクロな視点ではなくマクロな視点から分析することで、人間を集団として把握しようとするからである。HIV/AIDSの感染リスクを社会構造との関係から量的に把握し数値化することは、施策の実施において説得力をもつ。近年の社会疫学による調査では、従来の性行動などの質問とともに調査対象者の置かれた政治・経済的状況や差別経験などについて聞くことによって、シンデミックな側面を取り入れた人間の性行動の総合的な理解へと開かれつつある。つまり、個人の心理や行動のみならず、その人の置かれた政治・経済的背景をも広く理解しようとする。

だが質的調査の専門家からは、量的調査によるシンデミック・アプローチの限界も指摘されていた。シンデミック・アプローチはマクロな視点でなされるために、例えば暴力という用語に基づいて分析しようとしても、その詳細は抽象化される。しかしフィールドワークに基づくインタビュー調査などでは、その暴力が具体的にどのような暴力なのかを個人の具体的な生のリアリティの中で明らかにすることができる。そもそも批判的医療人類学者は、HIV感染という出来事が単に個人の問題として回収されるべきものではなく、その個人を取り巻く歴史や権力関係などの広い視点から理解されるべきだと主張してきた。だが一方で、これらの個人の具体的生のリアリティによって、どのような予防介入が可能となるのかを指摘することは難しい。そのリアリティは個人によって様々だからである。今後の研究方向としては、量的・質的にこだわるのではなく、その両方の長所と短所を理解した上で、それらを融合した研究をデザインすべきだと考えられる。また実際、近年のエイズ国際学会の発表では、量的のみ、質的のみの視点からの発表が少なくなっている点も特徴的であった。今後ますます、両方の調査法を融合させながら研究が行われていくという流れは、促進されていくものと考えられる。

おわりに
シンデミック・アプローチのラディカルさは、HIV感染リスクの高い性行動を行う個人への介入のみならず、そのリスク行動を促進する社会構造に介入しようとすることにある。このことが意味するのは、HIV/AIDSの流行を食い止めるにはHIV/AIDSの感染リスクの高い行動をとる個人を行動変容させるのみならず、その個人を取り巻く社会構造を変化させていくことが必須であるという認識である。HIV感染のリスク行動を自己責任として個人に押し付けるのではなく、そのような個人のリスク行動を促す背景にある政治・経済的要因は何なのかを明らかにし、それに介入する必要がある。HIV/AIDSは他人事ではなく、まさにこの疾患を他人事としている人々が変わらない限り、世界的流行を食い止めることが困難だということが、近年ますます科学的に証明されるようになってきているのかもしれない。


  1. van Griensven F: A Syndemic Approach to Understand and Address the Continuing Spread of HIV Infection among Men Who Have Sex with Men and Transgenders in Asia and the Pacific, Monday 29 August, 9:00-10:30.
  2. http://www.cdc.gov/syndemics/definition.htm
  3. Farmer P: AIDS and Accusation: Haiti and the Geography of Blame. University of California Press. 1993.
  4. Singer M: AIDS and the health crisis of the US urban poor: the perspective of critical medical anthropology. Social Science and Medicine 39(7): 931-948. 1994.
  5. http://apps.nccd.cdc.gov/syndemics/network.asp
  6. Bruce DB, Harper GW: Operating Without a Safety Net: Gay Male Adolescents and Emerging Adults’ Experiences of Marginalization and Migration, and Implications for Theory of Syndemic Production of Health Disparities. Health Educ Behav. 38(4): 367-378. 2011.
  7. Gonzalez-Smith RM, Florom-Smith AL, Thomas T: A Syndemic Model of Substance Abuse, Intimate Partner Violence, HIV Infection, and Mental Health Among Hispanics. Public Health Nurs.28(4): 366-378. 2011.
  8. Parker RG: Empowerment, Community Mobilization and Social Change in the Face of HIV/AIDS. AIDS 10(suppl. 3):S27-S31. 1996.
  9. Hoang Tu Anh: Moving from Sheer Quantity to Queer Quality: Emerging HIV and Social Research Issues among MSM and Transgender People, Saturday 27 August, 12:00-13:30.
  10. Jan Willem De Lind Van Wijingaarden: Moving from Sheer Quantity to Queer Quality: Emerging HIV and Social Research Issues among MSM and Transgender People, Saturday 27 August, 12:00-13:30.
  11. Boellstorff T: But Do Not Identify As Gay: A Proleptic Genealogy of the MSM Category. Cultural Anthropology 26(2): 287-312. 2011.