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第18回国際エイズ会議 参加報告書
 

慶應義塾大学文学部/エイズ&ソサエティ研究会議
樽井 正義

 人権、いまここで - 治療へのアクセスと薬物使用への対策 

エイズと人権

第18回国際エイズ会議(AIDS 2010)は、2010年7月18日から23日までウイーンを会場に、193カ国から19,100名が参加して開催された。

今回のテーマは「人権、いまここで(Rights Here, Right Now)」。エイズ対策では関係する人びとの人権への配慮(right-based approach)が不可欠であることは、いまでは常識とされている。しかしそれは、人権への顧慮が不十分であったがゆえに失敗せざるをえなかった幾多の苦い経験を通して、はじめて学び取られたことだ。

感染している人、あるいは感染が疑われる人を白眼視し排除しようとする社会では、わけても感染者への治療が用意されていない場合には、誰も進んで検査を受けようとはせず、感染は気づかれぬままに拡大する。このことを1980年代に思い知らされた社会は、90年代になってようやく、陽性者と感染のリスクに直面している人びとの人権、とくにプライバシーの尊重や非差別といった自由権への配慮が、この感染症の対策に必要であることを認め始めた。これを示しているのが、国連合同エイズ計画(UNAIDS)が創設後最初の課題の一つとして、国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)と共同で策定した「HIV/AIDSと人権 国際ガイドライン」(1998)だ。

また同じ頃先進諸国では抗レトロウイルス薬を組み合わせた治療法(HAART/ART)が普及し始めたが、やがてその途上国への導入が、南北の陽性者団体や支援組織、そして途上国政府からも要求されるようになった。医療という公共財を社会に保証してもらう権利、健康への権利という社会権は、新しい世紀に入ると、予防、治療、ケア、サポートへの「普遍的アクセス」(国連エイズ政治宣言 2006)というグローバルな課題として確認されることとなった。

NGOによる権利要求のデモンストレーションは、国際エイズ会議では恒例であり、今回も震災復興とエイズ対策を求めるハイチのグループなど、いくつものデモが連日会場内で展開された。なかでもウイーン市街を市民を含む1万5千人が埋めた「人権行進」は空前の規模であり、その先頭にはフリオ・モンタナ国際エイズ学会(IAS)会長、ミシェル・シディベUNAIDS事務局長、ミシェル・カザツキン世界エイズ結核マラリア対策基金事務局長が並んだ。

会議では、6日間の会期中に5つのプレナリーを含む約250のシンポジウムや口頭発表、それに130のサテライトを加えて計380のセッションが組まれた。会議の標語である人権に関わるセッションは、その3分の1に当たる128を数えた(1)。数からも推測されるように、人権という一語で総括されるとはいえ、そこで討議される主題は極めて多岐にわたる。その中からあえて、「いま」と「ここ」という言葉に関係づけて、陽性者の人権と個別施策層の人権に関わる主題を、それぞれ一つずつ選び、それについて報告することにしたい。

治療へのアクセスと母子感染予防

陽性者の人権については15のセッションが組まれ、感染を相手に告げないこと、感染させることを犯罪とする法制化の是非、陽性を理由とする入国・滞在制限の廃止といった主題も議論された。入国制限を議論することには、まだ規制を保持している韓国やオーストラリアに再考を促す意図が見られる。オバマ政権が昨年撤廃を宣言したことにより、次回会議の2012年ワシントンでの開催が決定しているが、これは1991年にボイコットされたボストン会議以来、20余年振りの米国での開催となる。

陽性者の人権の中でももっとも注目されるのは、やはり治療を受ける権利だろう。普遍的アクセスについてのセッションが11、さらに新薬の知的所有権をめぐるセッションも2つ開催された。

途上国におけるARTは、まさに「いま」焦眉の課題だ。前述の政治宣言では、普遍的アクセスという目標達成の期限は2010年末とされている。途上国で治療を受けている人は、会期中のWHO発表によれば、08年末の400万人から120万人増え、09年末には520万人と推計されている。WHOはまた、ART開始の基準を1ミリメートル立方当たりのCD4数200コピー以下としていた2006年の勧告を4年振りに改訂し、350コピー以下に引き上げた。これにより途上国で治療対象となる陽性者の数は、当然だが皮肉なことに1,000万人から1,500万人に増加することとなった(2)。 治療の普及の鍵は資金である。先進諸国から途上国へのエイズに関わる支援は、08年と09年は77億米ドルと横這いだが、10年には治療の維持を含めて90億ドルは必要とUNAIDSは見ている。今後の推移が、とくに今秋ニューヨークで開催される世界基金の拠出会議における各国のプレッジが注目される。

治療に関してもう一つ注目しておきたいのは、その継続である。ARVの服用を続けている人は、世界平均では12ヶ月後に8割、48ヶ月後に7割強であり、アジアでは5割強にとどまる(FRPL0205 P. Barker)。治療の継続には、医療組織のみならず、生活と治療への社会的支援体制が不可欠であり、その整備なしには治療の普及ははかれない。

妊婦への治療は、いうまでもなく新生児への感染予防(PMTCT)でもある。2008年の推計で、小児死亡は39万、新規感染は年43万。つまり毎日1,200人が新たに感染しているが、90%が垂直感染である。何もしなければ垂直感染は約30%だが、1999年に母子へのNVP単独投与により感染を40%防げることが報告され、その後AZTとの併用へと移行し、さらにほぼ100%に近い予防効果をもつARTが導入され始めている。

途上国で2008年にHIV検査を受けた妊婦は21%、いずれかの予防投与を受けたのは陽性妊婦の45%、新生児では32%にとどまっている。陽性の妊婦は約20万人と同数でも、その中でARTを受けているのは、南アでは73%だがナイジェリアでは10%と格差も大きい。従来の母子保健(妊婦ケア、出産ケア、新生児へのワクチン接種)にPMTCT(HIV抗体検査、妊婦と新生児への予防投与)を加え、さらにHIVクリニックでの治療(HIVケア・サポート、CD4検査、ART継続)に繋げる必要が指摘されている。(THPL0102 E. Abram)

世界基金は「HIV感染なしに生まれる(Born HIV Free)」というキャンペーンを、サルコジ仏大統領のカーラ夫人を大使として展開している。母子保健は、日本のODAを担当するJICAやNGOにとって得意分野とされている。世界基金やGAVIと連携した包括的な母子保健を展開することが強く期待される。

薬物使用者の感染予防

予防で中核をなすのは、感染のリスクに直面している幾つかのマイノリティだ。そうしたグループの人権問題を主題としたセッションは、女性あるいはジェンダーが17、若者は5、さらにMSMが9、セックスワーカーは6、移住労働者は2。断然多いのは薬物使用者に関するセッションで、22を数えた。

「ここ」ウイーンは旧オーストリー・ハンガリー帝国の首都であり、現在でもその領地であった東欧への入口とされている。その東欧と中央アジアを含む旧ソ連圏では陽性者150万人、ウクライナでは成人人口の感染率が1.6%という。この地域の新規感染の6割は注射薬物使用者であり、また薬物使用者の4人に1人が陽性と見られている。さらにウイーンには薬物を担当する国連機関(UNODC)がある。ここを会場にするということは、薬物使用に焦点を当てることにほかならない。

薬物対策では、供給削減、需要削減と並んで、使用に関連する保健医療・社会・経済等の面での被害を防ぐ被害削減(harm reduction)が必須の課題とされる。注射薬物使用による、あるいは薬物使用を伴う性的関係によるHIVやHCVへの感染は、健康被害の筆頭に挙げられており、その対策としては、清潔な注射器の配布(NSP)、オピオイド代替療法(OST)、情報と相談の提供(IEC)、そしてART等を包括的に行うことが勧められている(3)。こうした被害削減策が極めて有効であることは、すでに科学的に実証されている。今回の会議においても、エストニアのタリンでは2003年に1万8千であった注射器配布を09年までに77万に増やし、この間に100人当たり新規感染を100人当たり18人から7.5人へと下げた(MOAC0402 A. Uuskula)、ウクライナのオデッサでは包括的なハームリダクション(OST+NSP+ART)を薬物使用者の60%に提供し、新規感染を41%減少させた(TUSY0702 S. Strathdee)(4)といった報告があった。これらのハームリダクションを早くから採用しているオーストラリアからは、過去10年で注射器配布の費用1豪州ドル当たり4ドル以上の医療費が節減されたとの費用便益分析も示された(MOAC0403 D. Wilson)。

しかし効果は実証されながらも、ハームリダクションの普及は、一部の国を除き極めて限定されている。ロシアは昨秋、世界基金からの援助終了後は自国の資金で継続すべきハームリダクションを実施しないと宣言した。これに対して当事者団体とNGO代表団は強い抗議を示し、世界基金理事会は例外的措置として支援継続を決定した。予防策だけでなく治療についても、薬物使用者はその利用が困難な状況に置かれている。ロシア、ウクライナ、中国、ベトナム、マレーシアの5カ国に、途上国の陽性薬物使用者の半数弱、47%で約270万人がおり、陽性者全体の67%を占めているが、ARTを受けている人の中では25%にすぎない。ロシアだけ見れば、薬物使用者は陽性者推計100万人の83%だが、ARTを受けている人の20-30%でしかない(TUSY0704 D. Wolfe)(4)

このように予防と治療へのアクセスを妨げているのは、薬物使用をもっぱら犯罪と見なし、保健の課題とは考えない政治姿勢にある。この姿勢には、2000年代初めのタイのタクシン政権下で3,000人が殺されたことに代表されるいわゆる「麻薬戦争(War on Drugs)」や、32カ国の法制度における極刑の保存から、ハームリダクションの導入への反対までの広がりがある。そうした「薬物取締政策の限界と弊害を認め、効果的なHIV予防、治療、ケアを提供する妨げとなる障壁を取り除くため、薬物政策を改革するよう要望する」ものとして「ウイーン宣言」が、ウイーン会議とIAS等によって提唱され、閉会までに約1万3千の署名を集めた(5)。それは、エビデンスに基づく政策をという科学的主張であるとともに、人権への配慮に基づく政策をという倫理的要請でもある。

薬物使用を保健問題として捉えるのは、日本の課題でもある。薬物使用者は2万人が受刑、精神異常を来した2千人が医療機関で治療を受けているが、依存という疾患を治したいという人は、百数十人がNGOに受け入れられているにすぎないという。また薬物使用に関連してもう一つ、日本の貢献が求められる領域がある。欧米とアジアでは陽性者の3割、薬物を使用する陽性者の8割がHCVに重複感染している(TUAB0104 R. Bedimo)。予防、コントロール、治療(SVR)を進めるために、日本に蓄積された重複感染に関する知見の寄与が期待される。


(1) Now More Than Ever. A delegate's guide to law and human rights sessions at AIDS 2010.
http://www.hivhumanrightsnow.org/docs/nmte_roadmap_booklet.pdf  
(2) WHO at Vienna 2010.
http://www.who.int/hiv/vienna2010/en/index.html 
(3) 次の文献を参照。古藤吾郎他, ハームリダクションと注射薬物使用. 国際保健医療, 21.3., 2006
http://www.jstage.jst.go.jp/article/jaih/21/3/185/_pdf  
(4) このセッションは、The Lancet の特集号HIV in people who use drugs, July 2010への寄稿者による。これらはSeriesとして、関連するCommentとともに、7-8月に同誌に掲載されている。
http://www.thelancet.com 
(5) http://www.viennadeclaration.com 
邦訳はエイズ&ソサエティ研究会議HATプロジェクト
http://asajp.at.webry.info/201007/article_1.html